ベランダのバルキリー。
小3くらいの頃か。
僕はその日、プラモデルを完成させた。
「VF1-Jバトロイドバルキリー」。
カッコいい。自分で組み立てればカッコ良さもひとしおと言うものだ。
立ち姿が良い。惚れ惚れして部屋の至る所に立たせてみる。
…やはり良い。
僕は我慢出来ずに、バルキリーをベランダへ持ち出した。
当時社宅の五階に住んでいたので、置く場所次第では空をバックにしてまた映える事だろう。
しかしこうなると当然、ベランダの淵へ置きたくなる。落ちるかも知れないが、夕陽を背にガンポッドを構えるその姿を思えば、僕はもう置かないワケにはいかなくて、ベランダ柵の上にバルキリーをそっと立たせた。
落ちた。
真っ逆さまだ。
僕は息を呑んだ。
声も出なかったその脳裏には
「やっぱりな」
という言葉がチラリと覗き見えたけれど、
色んな後悔と共に僕は救出に走り出した。
台所で炊事する母の背に、
バルキリー落ちたから取ってくる!と叫ぶと母が
「あらあら可哀想に」と言った、その言葉をなんとなく胸で反芻しながら僕は階段を駆け下りた。
植込みに突き刺さったバルキリーは幸いにも脚を折るだけの軽傷(普通に壊れてる)で、
ウチに持って入り、すぐに治そうと試みるけど股関節って中々上手く治らない。
あくせくしながら、なんだか僕はバルキリーに「ゴメンね」という気持ちが湧いてきた。
せめて立たせてやる、という思い一つで結局関節をベタ着けして一応、治った。
プラモデルや人形がまるで生きてるかの様に「可哀想」「喜んでるよ」とその感情を親が肩代わりして語る事は少なくない。
優しさは持って生まれる気質だけでなく、こういった情操教育が必要なのじゃないかな、と思う。
相手は人形だから見返りも反応もない。
だから、自分がされて辛い事を基準に相手の「可哀想」を考えていく。
そうやって自分を知り、やがて自分という基準をもって他人との違いに気が付いていく。
それを僕は思いやりと呼んでいいと思う。
僕の思いやりはバルキリーを救わなかったけれど、
バルキリーは僕に優しくする事を教えてくれたと、
今もマクロスを観て、ふと思い出す事がある。