40代管理職、父になる。

6歳男児.2歳女児、共働きの父。趣味は自転車。

ベランダのバルキリー。

小3くらいの頃か。

僕はその日、プラモデルを完成させた。

「VF1-Jバトロイドバルキリー」。

カッコいい。自分で組み立てればカッコ良さもひとしおと言うものだ。

 

立ち姿が良い。惚れ惚れして部屋の至る所に立たせてみる。

…やはり良い。

僕は我慢出来ずに、バルキリーをベランダへ持ち出した。

当時社宅の五階に住んでいたので、置く場所次第では空をバックにしてまた映える事だろう。

しかしこうなると当然、ベランダの淵へ置きたくなる。落ちるかも知れないが、夕陽を背にガンポッドを構えるその姿を思えば、僕はもう置かないワケにはいかなくて、ベランダ柵の上にバルキリーをそっと立たせた。

 

落ちた。

 

真っ逆さまだ。

 

僕は息を呑んだ。

声も出なかったその脳裏には

「やっぱりな」

という言葉がチラリと覗き見えたけれど、

色んな後悔と共に僕は救出に走り出した。

台所で炊事する母の背に、

バルキリー落ちたから取ってくる!と叫ぶと母が

「あらあら可哀想に」と言った、その言葉をなんとなく胸で反芻しながら僕は階段を駆け下りた。

 

植込みに突き刺さったバルキリーは幸いにも脚を折るだけの軽傷(普通に壊れてる)で、

ウチに持って入り、すぐに治そうと試みるけど股関節って中々上手く治らない。

あくせくしながら、なんだか僕はバルキリーに「ゴメンね」という気持ちが湧いてきた。

せめて立たせてやる、という思い一つで結局関節をベタ着けして一応、治った。

 

プラモデルや人形がまるで生きてるかの様に「可哀想」「喜んでるよ」とその感情を親が肩代わりして語る事は少なくない。

 

優しさは持って生まれる気質だけでなく、こういった情操教育が必要なのじゃないかな、と思う。

 

相手は人形だから見返りも反応もない。

だから、自分がされて辛い事を基準に相手の「可哀想」を考えていく。

そうやって自分を知り、やがて自分という基準をもって他人との違いに気が付いていく。

それを僕は思いやりと呼んでいいと思う。

 

僕の思いやりはバルキリーを救わなかったけれど、

バルキリーは僕に優しくする事を教えてくれたと、

今もマクロスを観て、ふと思い出す事がある。