40代管理職、父になる。

6歳男児.2歳女児、共働きの父。趣味は自転車。

躾けってなんだろう。

「躾けがなってない。」

 

そんな言葉を見聞する機会は親をやっていると少なくない。

 

とはいえ子供をどう躾けるかは、

社会や他人が決める事ではないはずで、決めていいのなら、成人してるのに電車で泣く乳児やその母親を目の敵にするなんて、一体どんな躾けをされてきたのか、と言いたくなる。

 

躾けは親が自分の子にする行為なのだけれど、そもそも躾けとはなんだろう。

 

そこで躾けの代表格、躾けオブ躾、

「箸の持ち方」

を例に考えてみたい。

食事の際たまに聞く「美味しく食べる事が大切。作法は後でよい」という話。

でもこれは逆で、美味しく食べる為に作法や技術が必要なのだ。

今年は秋刀魚が豊漁で塩焼きを美味しく頂いた方も多いと思うが、

その中にフォークを使って美味しく食べた、という方は殆どいらっしゃらないと思う。いるかもですが笑。

 

そして、秋刀魚の骨を取るにしても、箸を上手く使えれば皿を汚さず、大根おろしとバランスよくさらに美味しく美しく隅々まで食べれるワケだ。

 

美しく食べる事もとても重要。

食事そのものが優れたコミニュケーションの手段、社交場である事はまぎれもない事実で「汚い食べ方をして相手を嫌な気持ちにさせない」事は自身の評価に直結する。

ここで「やっぱサンマは丸かじりよな笑」ってガブリと腹に噛み付いて美味しく食べたなら、あらワイルドな方ね、となればいいが、もうBBQくらいしか呼んでもらえそうにない。

 

クドイ話になったが、

箸を上手く美しく使う事は、

子供の将来にとってプラスでしかなく、美味しく食べてくれたらなんでもいい、という本来の親心をぐっと抑えて躾けるべきなのだろう。

そして、実際のそれは訓練だ。補助箸に慣れ、補助を外しても常に親が監視して注意、練習を繰り返し、習慣化する。

 

これこそが躾けなのではないか。

 

ベランダで遊んで危ないからお尻ペンペンする、というのは危険を学習させる事であって躾けではない。

実際、二歳の娘がキッチンに潜り込み、コーヒーのヒーターに触ってしまい軽い火傷をしたのだけれど、それからもうコーヒーメーカーには近付かなくなった。

これに触ると痛い、と幼児でも動物的に学習するのだろう。

ベランダから落ちたら死ぬほど痛いか、もしくは死ぬので、

それを子供に体験させるワケにはいかず、生死に関わる痛みの代わりに、ママが叩く。そうして子供にベランダで遊ぶとママにぶたれる、と学習させるのだ。

 

よって手をあげる事で注意は可能だがそれは「躾け」ではない。

例えば箸の躾けの際、失敗するたび手をパチリとやる。これは躾けの中の一環であって、躾けそのものは箸を上手く使える様にする事なのだ。

 

さて、この定義に当て嵌めて、幼児における躾けとは何があるだろうか。

例えば歯磨きなどもそうだろう。

想像してほしい。

虫歯だらけで歯は真っ黒。食事は犬食いでガツガツ食べる。

その様な子供の背景に豊かな暮らしが思い浮かぶだろうか。

 

躾けとは、
親が後天的に与える事の出来る、
文化的生活の基盤なのだ。

 

誰かに迷惑をかけないようにする、

というのは殆んどの場合、注意の対象であり、躾けではないし、

冒頭の電車で泣く乳児を抱く母親を助ける、思いやる事は、人を思いやる心を習慣付けられていれば、当たり前に出来る事なのだと思う。

 

教育番組でも日々行われる、心の躾け。

人を思いやる事。誰もが迷惑はかけてしまうのだ。だから思いやる心を躾けなければならない。

 

そしてこうした躾けの全ては、

習慣付ける為に親が子に寄り添って、目をかけて行われる。

 

親が、いつも見てくれている。

 

子供にとってそれは、躾けを訓練する事よりも大切で、豊かな心の基盤を作るのかも知れない。