「男らしさ」は呪いなのか。
先日妻を残し子供らと電車で帰省した際、
となりのボックス席に4人組の若い女性達が乗って来て、網棚にスーツケースを載せようと頑張ってるので、
手伝いますよ、と僕は立ち上がり、スーツケースを全て乗っけてから、
また降りる時声掛けて下さいね、と着席。すると正面に座る息子が目をキラキラさせて、
「パパ、やったね!」と。
え、あぁ、と返すと、
「世界一のパパ…」となぜか照れながら言うので、
ちょっ、やめろ、やめなさい!とこちらも照れてしまった。
照れた後、こういうお手伝いが出来たら、お手伝いした方も気持ちが良いでしょう?だから君も困ってる人をお手伝いしてね、と息子に伝えた。
かく言う僕も、
独身の頃は下心を疑われるのが不愉快でこういう事をスマートに出来なかったのだけれど、子持ちとなればそう見られる事もないだろうと、自然に声を掛けれる様になってきた。
例えば、エレベーターでも先に降りてもらう、ドアを開けて先に行ってもらう、
重荷を運ぶ事を手伝ったり。少しキザに見えるかも知れないけど、
こういう行いを受けると男女問わず嬉しいと思うし、
それでも行うのは男性であるべきだと思う。
「男女平等」の名の下に、
自分の事は自分でやれ、優先順位に男も女もない。というのは頷ける話かも知れないけど親になって分かったのは、
男女は産まれた時点で全く違う、という事。
赤ん坊を抱いても、
男子は固くズシっとした印象。
女子は柔らかくふにふにして儚い。
少し歩く様な歳になれば、
男子はボーっとしてるし、
女子はクネクネとして愛嬌がある。
個体差はあるけど、もう、
男女は全く違う。
この差を社会が無視する事は誰も望まないのではないか、と考えてしまうほどに。
人権として男女平等になる事は当たり前だけれど、
男女差をなくす事は恐らく不自然で、
男子が人工胎盤を望む事も、
女子が男性並みに鍛える事も、
お互いが違いを認めあい尊重した方が遥かに効率的で、平和だ。
話が大きくなってしまうが、
この男女差を知れば、
か弱い女性がさらにか弱い赤ん坊を身籠もるとなれば、男はそれを守るのが当然で、その結果、男は外へ、女は家庭を、
という歴史を持つ事になったのは想像に難くない。
その経験則の中で、男なら、女なら、こう生きた方が賢い、という慣わしが産まれ、「男女らしさ」の雛形になったのは間違いないだろう。
でも近年、
男性の
危険を冒して獲物を狩る、
あらゆる侵略から家庭を守る、
という仕事はスーパーとアルソックに肩代わりされ、お金さえ稼げば女性だけでも概ね安全に暮らせる世の中になった。
そして時代錯誤の慣わしは呪いと呼ばれ、十把一からげにして「男女らしさを押し付けるのは違う、あなたらしさを持つべき」という風潮。
でも恐らく、殆どの人が性別を無視して自分らしさを語れないと思う。
社会が成熟し、直ちに命が危険にさらされる事が少なくなった今、
それでも女性はか弱く未来を繋ぐ存在で、男性はそれを守る存在である事に変わりはないと思っているし、
成熟した社会だからこそ、暴力を含むあらゆる「理不尽」から女性を守らなければいけない。これを僕は男らしさと呼んでいいと思っている。
余談だけれど、家事育児の分担も慣わしによる理不尽から守る事だとも思う。
昭和に流行った男らしさと言えば、
「漢とはこうあるべき!」といった、
ダンディズム的美意識だった気もするし、それが間違いとは思わないけれど、
息子にそれはまた時代錯誤だと思う。
君は男なので女子より頑丈に出来てるんだ。それは自分の大切な人を守る力なんだよ。
男女の決定的差。
その理由を履き違えさせない事。
そうすれば、男らしさは呪いでなく、
きっと彼の人生の道しるべとなってくれるはず。
そして子供らが成人する頃には、
男女が互いの違いを受け入れ、
尊重しあえる時代になっていればいいと、
切に願います。